連載小説
池袋スナック物語 〜夜の隙間に落ちた二人〜

第6話:捕食者の微笑(紗耶香の場合)

執筆:スナック・ストーリーズ小説部 | 公開予定日:2026.02.10

第6話(捕食者の微笑)
「スナック 琥珀」の三人の女性たちを、観察対象として冷淡に眺める紗耶香(24歳)
愛の純真さも、葵の絶望も、彼女にとっては退屈な日常を彩る「おもちゃ」に過ぎなかった。
誰にも選ばれなかった過去を塗り潰すために、彼女が選んだ次の獲物は、この店で最も「神聖」な場所。
天然キャラという仮面の裏で、紗耶香が静かに、そして残酷にターゲットを定める。


「ねえママ、愛さんって本当に幸せそうですよね。見てるだけで、こっちまで胸がキュンとしちゃう」

紗耶香は、あかねママの肩に頭を預けながら、これ以上ないほど愛らしい声で呟いた。ママは「本当ね、あの子は不器用だけど、あの健一さんと出会えて本当に良かったわ」と目を細める。そのママの横顔を見ながら、紗耶香は心の底から欠伸(あくび)を噛み殺していた。

(……反吐が出る。幸せ、純愛、救い。この街にそんなものがあると思ってる時点で、みんなどうかしてるわ)

紗耶香にとって、池袋の夜は「奪うか奪われるか」の二択しかない。かつて東口のキャバクラで、ゴミのように扱われ、誰からも必要とされなかった自分。あの時、彼女を救ってくれる「健一」も、心配してくれる「ママ」もいなかった。自分を救えるのは、自分だけ。そして自分を保つためには、他人の「持っているもの」を壊して、自分と同じ高さまで引きずり下ろすのが、一番手っ取り早い特効薬なのだ。

*

紗耶香は、カウンターで睦まじく話す愛と健一をじっと見つめた。
愛は健一が話す些細な仕事の話題に、まるで初めて聞く物語のように目を輝かせている。その「信じ切っている瞳」が、紗耶香の神経を逆撫でする。もしこの瞳が、絶望に染まって真っ暗になったら、どんなに美しいだろう。その想像だけで、紗耶香の乾いた心は、かつてない高揚感に包まれた。

「健さーん、今日もお疲れ様です! 喉、乾いてませんか?」

紗耶香は、愛が新しいおしぼりを取りに行ったわずかな隙を突き、健一の隣に音もなく滑り込んだ。彼女の武器は、愛が持つ「包容力」とは正反対の「無防備な依存」だ。キャバクラ時代に死ぬほど練習し、誰にも通用しなかったはずのその技術が、このスナックという緩い空気の中では、恐ろしいほどの威力を発揮することを知っていた。

「ああ、紗耶香ちゃん。いつも元気だね」

健一が穏やかに笑う。その笑顔の奥に、ほんのわずかな「揺らぎ」を紗耶香は見逃さなかった。5年という月日は、愛への信頼を固くしたが、同時に男としての「新鮮な刺激」を奪い去っている。紗耶香は、テーブルの下で自分の膝を健一の足に、わざとらしくない程度の重さで触れさせた。

*

「……紗耶香ちゃん、代わるわね。ありがとう」

戻ってきた愛が、少しだけ困ったような笑顔で割って入る。愛の心にはまだ、嫉妬という言葉すらないのだろう。ただ、自分の聖域に無邪気な子供が入ってきたのを、優しくいなそうとしているだけだ。

紗耶香は「はーい、お邪魔しましたー!」と明るく席を立った。バックヤードへ戻る途中、カウンターの端で、苦しそうにスマホを見つめる葵と目が合う。不倫の沼で溺れている葵。彼女もまた、紗耶香にとっては格好の「材料」だ。

(愛さんは幸せの絶頂。葵さんは地獄の入り口。……じゃあ、私はその真ん中で、全部をかき混ぜてあげようかな)

紗耶香は、エプロンのポケットの中で自分のスマホを取り出した。そこには、数日前にこっそり入手した、健一の個人の連絡先が表示されている。

深夜、閉店作業が終わる頃。紗耶香は、鏡に向かって自分の顔をチェックした。24歳の瑞々しい肌、嘘で塗り固めた純粋な瞳。彼女は、隣で片付けをする愛に、わざと聞こえるような小さな声で、けれど、背筋が凍るような冷たさを込めてこう呟いた。

「愛さん、知ってます? 5年目の恋って、一番『腐りやすい』時期なんですって。……中が腐ってるのに、外側だけ綺麗なフリしてるのって、なんだか惨めですよね」

「……え? 紗耶香ちゃん、何の話?」

愛が驚いて顔を上げる。しかし、紗耶香はもう、いつもの無邪気な笑顔に戻っていた。

「あはっ、ネットの占いですよ! 変なこと言っちゃってごめんなさい! お疲れ様でしたー!」

スキップするように店を出ていく紗耶香の背中を、愛は呆然と見送った。池袋の夜風に乗って、紗耶香の笑い声がロマンス通りに響く。彼女の手の中にあるスマホが、まるで獲物の脈動を捉えたかのように、短く、静かに震えた。

第7話、ついに動き出す悪意「静かなる侵食」へ続く。

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