連載小説
池袋スナック物語 〜夜の隙間に落ちた二人〜

第10話:牙を剥く純真(紗耶香の場合)

執筆:スナック・ストーリーズ小説部 | 公開予定日:2026.02.14

第10話(牙を剥く純真)
「スナック 琥珀」の新人、紗耶香(24歳)。その瑞々しい笑顔の裏側には、底知れない「虚無」が潜んでいた。
彼女にとって、愛の純粋な幸福は何よりも鼻につく「汚物」でしかない。
愛を、健一を、そしてこの店を壊すこと。それが紗耶香に与えられた唯一の娯楽。
ついに紗耶香は、健一に向けて決定的な牙を剥く。嵐の夜が、池袋を飲み込もうとしていた。


池袋駅西口から徒歩10分。築40年の古びたワンルームマンション。紗耶香は鏡の前で、自分の顔を入念にチェックしていた。安物の化粧品で作り上げた「守ってあげたくなるような新人」の顔。口角を数ミリ上げ、瞳の光を少しだけ濁らせる。よし、今日も完璧だ。

足元には、数日前に買ったばかりのブランド物のバッグが転がっている。健一に「誕生日に何も買ってもらえなかった」と嘘をついて買わせたものだ。紗耶香にとって、バッグの価値なんてどうでもいい。大切なのは、愛という女が数年もかけて積み上げた「信頼」という城壁を、自分がたった一言の嘘で崩し始めているという事実だ。

「……愛さんって、本当に気持ち悪い」

紗耶香は、鏡の中の自分に冷たく吐き捨てた。愛のあの、一点の曇りもない笑顔。40歳にもなって「信じていれば幸せになれる」なんて本気で思っている、あの知能の低そうな純真さ。それを見ているだけで、紗耶香の腹の底にはどす黒い吐き気がせり上がってくる。幸せ? 純愛? そんなもの、この池袋の排気ガスの中に一秒放り出せば、すぐに死に絶える幻想だ。

*

出勤してすぐ、紗耶香は愛の隙を突いて健一に近づいた。カウンターの端、愛が他のお客の対応をしているわずかな時間。紗耶香は健一のグラスにそっと指先を触れさせ、吐息が耳にかかる距離まで顔を寄せた。

「健一さん……。昨日、言ったこと、覚えてますか?」

健一が、目に見えて動揺するのが分かる。48歳の男が、24歳の小娘に翻弄されて、情けないほど肩を震わせている。昨夜、紗耶香は彼に「愛さんにバレるのが怖いなら、もう終わりにしましょう。私は、二人の幸せを壊したくないから……」と、泣き真似をしながらメッセージを送っておいたのだ。もちろん、彼を追い詰めるための、計算し尽くされた「引き」の言葉だ。

「紗耶香ちゃん、あんなこと言わないでくれ。私は、君のことを……」

「ダメです。愛さんは私の恩人。……でも、健一さんと一緒にいるときだけ、自分が生きてるって感じるんです」

紗耶香は、健一のコートのポケットに、小さなメモを滑り込ませた。池袋の、とあるラブホテルの住所と、深夜2時の約束。健一の瞳に、抗えない欲望の火が灯るのを、紗耶香は見逃さなかった。この男はもう、落ちた。愛という「聖域」よりも、紗耶香という「猛毒」を選んだのだ。

*

営業中、紗耶香はわざとらしく愛の隣に行き、親しげに腕を組んだ。
「愛さん! 今日も健一さん、愛さんのことばっかり見てますね。本当に羨ましいなあ」

「もう、紗耶香ちゃんったら。大袈裟よ」

愛は、顔を赤らめて照れ笑いを浮かべている。その腕の下で、健一と自分が繋がっているとも知らずに。あかねママの鋭い視線が刺さるのを感じたが、紗耶香は平気だった。ママが何を言おうと、証拠はない。夜の街の掟? そんな古臭いルール、壊してしまえばいい。

葵が、カウンターの隅で幽霊のような顔をして自分を見ているのも、最高のスパイスだった。葵は気づいている。だが、彼女は言えない。自分も不倫という泥沼に浸かっている彼女には、正義を振りかざす力なんて残っていないのだから。紗耶香は葵に向けて、声を出さずに「共犯者さん」と口を動かした。葵が、絶望に顔を歪める。あは、最高。

*

閉店後、紗耶香は池袋のネオンの下を、鼻歌混じりに歩いていた。背後では、愛が健一と「また明日ね」と、いつも通りの、そしておそらく最後になるであろう穏やかな挨拶を交わしている。

紗耶香はスマホを取り出し、ホテルの部屋で自撮りをした。上目遣いの、無防備な表情。これを健一がホテルに来る直前に送りつければ、彼はもう二度と愛の元へは戻れないだろう。

「……愛さん。あんたの『純愛』がどれだけ安っぽいか、今夜、私が証明してあげる」

紗耶香の唇が、三日月のように歪んだ。それは純真な仮面が完全に剥がれ落ち、中から飢えた獣が顔を出した瞬間だった。牙はもう、愛の喉元に届いている。

「(さあ、パーティーの始まりよ)」

第11話、崩れ落ちる日常「健一の裏切りと愛の慟哭」へ続く。

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