連載小説
池袋スナック物語 〜夜の隙間に落ちた二人〜

第8話:裏切りの共犯者(葵の場合)

執筆:スナック・ストーリーズ小説部 | 公開予定日:2026.02.12

第8話(裏切りの共犯者)
愛の知らないところで、確実に「琥珀」の歯車が狂い始めている。
健一に忍び寄る紗耶香の影を察知してしまった葵(38歳)は、かつてない激しい葛藤に苛まれていた。
唯一無二の親友である愛を救いたい。けれど、不倫という泥沼に身を置く自分に、彼女の「純愛」を語る資格があるのか。
池袋のネオンが滲む夜、葵は沈黙を守ることで、期せずして「裏切りの共犯者」へと堕ちていく。


池袋北口の雑居ビルにある、なじみの深夜喫茶。窓の外では、客引きの男たちの怒号と、酔客の笑い声が、湿った夜気の中に溶け合っている。葵は、冷めきったブラックコーヒーに映る自分の顔を見つめていた。38歳。夜の街で賢く生きてきたつもりの顔が、今は酷く疲れ、濁って見える。

「……ねえ、葵。また、慎二さんのことで悩んでるの?」

目の前に座る愛(40歳)が、心配そうに顔を覗き込んできた。その瞳は、今日も一点の曇りもなく、澄んでいる。この街で、これほどまでに他人を信じ切れる瞳を、葵は愛以外に知らない。愛は、昨夜、健一がスマホを隠すように操作していたことにも、紗耶香が彼の膝にそっと触れていたことにも、微塵も気づいていないのだ。

「ううん、大丈夫。いつものことよ。……慎二さん、また『氷』の時期に入ったみたいで」

葵は嘘をついた。慎二との関係が辛いのは事実だ。数日前まであんなに情熱的に愛を囁いていた慎二は、今やメッセージ一通すらよこさない。その拒絶が葵の胸を掻きむしり、呼吸を浅くさせている。だが、今の葵の心を支配しているのは、自分自身の泥沼よりも、愛のすぐ背後に迫っている「絶望」の予感だった。

*

昨夜の閉店後、葵は見てしまった。バックヤードで着替えていた紗耶香のスマホに、健一からの着信が表示されたのを。そして、それを見た紗耶香が、まるで獲物を仕留めた獣のような、酷く冷淡で、それでいて勝ち誇った笑みを浮かべたのを。

(愛に言わなきゃ。あの女、本気よ。健一さんを愛してるんじゃない、あんたの幸せを壊そうとしてるだけなの)

喉まで出かかった言葉を、葵はコーヒーと一緒に飲み下した。もし今、ここで全てをぶちまけたらどうなるだろう。愛は傷つくだろう。だが、それ以上に恐ろしいのは、愛を救おうとする自分の手が、あまりにも汚れていることだった。

葵は知っている。自分が慎二に入れ込んでいる理由は、彼が完璧な男だからではない。彼から与えられる「冷酷な拒絶」と「狂おしい温かさ」の落差でしか、自分の存在を実感できなくなっているからだ。そんな「壊れた恋愛」のサイクルから抜け出せない女が、5年かけて築かれた愛と健一の「神聖な絆」を、自分の憶測だけでかき混ぜる権利なんてあるのだろうか。

「葵? 本当に顔色が悪いわ。……私でよければ、何でも聞くからね。私たちは、ただの友達じゃないんだから」

愛の手が、テーブルを越えて葵の手に重ねられた。その温かさが、葵にはひどく痛かった。愛にとって、葵は唯一の理解者であり、この汚れた街で唯一信頼できる親友だ。その信頼が、葵をさらに追い詰めていく。このまま黙っていれば、自分は紗耶香の片棒を担いでいるのと同じではないか。愛を裏切っているのは、健一だけではなく、自分もなのだ。

*

「……愛はさ、もし健一さんに隠し事があったら、どうする?」

無意識に、言葉がこぼれ落ちていた。愛は少し驚いたように目を瞬かせ、それから、困ったような、けれど確信に満ちた笑顔を浮かべた。

「隠し事? そうね……健さんのことだから、きっと私を心配させないための、優しい嘘なんだと思う。私はそれを、自分から暴くようなことはしたくないかな」

あまりにも無防備な答え。その純粋さが、葵には毒に感じられた。この街で生きるには、その純粋さはあまりにも致命的な欠陥だ。紗耶香のような「捕食者」は、その綻びを正確に狙ってくる。愛が「優しい嘘」だと信じているものの正体が、どす黒い裏切りだと知ったとき、彼女はどうなってしまうのか。

「そう……。愛らしいわね」

葵はそれ以上、何も言えなかった。もし愛を救おうとして真実を告げれば、愛の「優しい世界」を自分が破壊することになる。だが、言わずにいれば、紗耶香がゆっくりと、しかし確実に愛の居場所を侵食していくだろう。どちらを選んでも、葵は愛を傷つけることになる。

(結局、私は自分のことしか考えていないのよ。愛が壊れるのを見るのが怖いだけ。彼女が壊れたら、私が信じていた『この街にも本物の愛がある』っていう最後のかすかな希望が消えてしまうから)

店を出ると、池袋の夜風が湿気を帯びていた。葵のスマホが震えた。慎二からの、短いメッセージだ。
『今夜、いつもの場所で。』
驚くほどの冷たさの後にやってくる、驚くほどの温かさ。葵はそのメッセージを見た瞬間、愛への葛藤すらも、一瞬だけ脳の隅へ追いやられてしまう自分に気づき、激しい嫌悪感を覚えた。

「……みんな、バカよね」

葵は誰にともなく呟き、ネオンの海へと歩き出した。彼女の手には、まだ伝えられなかった真実が、重い鉛のように残っている。その沈黙が、彼女を裏切りの共犯者へと変えていく。愛だけが、嵐の前の静けさの中で、まだ穏やかに笑っていた。

「(……ごめんね、愛。私は、あんたを助けるヒーローにはなれそうにないわ)」

第9話、ママが語る「夜の街の掟と愛の行方」へ続く。

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